ソドムの世界〜とあるエリートの話
🕑 Added 2021-12-26 11:32:34 +0000 UTC
そもそも、「世界にホモ・セクシュアルの男性しか存在しなくなりました」なんてニュースである日突然言われたとして、そんなの信じられるわけがない。
中学高校時代から年に数回は女子から告白される程度のスペックを持っていながらも、女っ気なしで40年間過ごしてきた俺みたいな男にとっては、そんな世界はまるで夢のようで――むしろ夢のようでありすぎて、たやすく信じられるものではないのだった。
それがニュースが流れてから半年も経てば、こうして街中の至る所で男同士が肩を寄せ合って歩いていたり、電車や駅のトイレなんかじゃいかがわしい行為も暗黙の了解とされるような世界線に変わってしまって、ああ、この街、国、いや、世界にはホモしかいなくなったんだな、と否応なしに信じざるを得なくなってもくるのである。
スーツを着て自身の名を冠した法律事務所に出勤する傍らでも、これまで通り普通に街を歩く男たちの群れの中に混じって、かつて存在した男女のカップルよりも遥かに熱烈なやり口で性愛を見せつけてくる男連れがいくつも存在している。
「タケルのアソコ、すっごく硬くなってるよ」
クスクスと笑いながら隣を歩く男のズボンのポケットに手を突っ込み股のあたりを弄っている男とすれ違う。公然猥褻でしょっ引かれれば面白いのに――なんて冷めたことを考えてしまうのは、弁護士という職業によるものだけではないだろう。
生まれてから40年。俺のペニスをあんなにも愛おしげに触ってくれた男は未だかつて1人も存在しない。大学に入り、大人になっていく途中で何人かの女と惰性で交わったり交際の真似事をした以外、俺は本気で誰かを愛したことも愛されたこともない。
街行く男同士の卑猥なカップルに、俺は少しだけ嫉妬していた。女には無駄にモテた半生だったが、男からはてんでモテやしなかった、というより男同士で愛するために必要なことが何なのかわからなかった。職業柄、無闇にネットで顔を晒して相手を探すような真似はしたくなかったし(何らかの弱みになって職務に支障をきたしたら困る)、ハッテン場などの場所に出入りするのも同様の理由ではばかられた。
顔は、そこそこいいと思う。体も日課のジョギングで鍛えている。腹も出ていない。むしろうっすらと腹筋の筋が見えているほどだ。収入も高収入だと思う。性格は少し傲慢なところがあるかもしれないのと、妙に冷めたところがある以外は特別問題もないはずだ。その傲慢さと冷めた態度のおかげで淡々と勉学に励み目指すことができた弁護士という職務にも、俺は誇りを持っている。
しかし、せっかく世界が男だらけとなったというのに、浮いた話が一つもないというのはやはり少し寂しいものだった。事務所につき、アシスタントをしてくれている小塚くんに朝の挨拶をし、コートをハンガーにかけてロッカーにしまいながら俺は彼に尋ねた。
「突然だが、小塚くんもゲイなんだよな?」
「えっ? っは、はい……そうですね。どうされたんですか?」
「いや……今朝来る途中に一応着衣で隠しながらも、猥褻行為に耽っているカップルを見かけてね」
「ああ、増えましたね。最近」
「公然猥褻で捕まってしまえばいい、と思ったんだが。それが若干自分の嫉妬心も含まれた気持ちだと気づいたんだ」
「嫉妬、ですか? 先生みたいな方が?」
小塚くんは不可解そうにしながらも、コーヒーを淹れて私のデスクに乗せてくれた。
「ああ。嫉妬だ。自分でも少し驚いた」
「先生みたいな完璧にも近い人が嫉妬なんてするんですね」
彼の称賛まじりの相槌に俺は苦笑して答える。
「俺は完璧なんかじゃないさ。でも、自分でもこういったことには冷めていると思っていたんだが、珍しく嫉妬したよ。それこそムラムラとね。未だに男相手では童貞だしね。こんな世界になったら、それも少しコンプレックスになりそうだ」
「先生、童貞なんですか?」
驚愕した様子で振り返って小塚くんが叫んだ。
「大きな声で言ってくれるなよ」俺は笑いながら彼をいさめた。「男相手には、だ。女の相手は何度かしたけどな。それも全部惰性でだ。思い返すだけで冷え冷えとしてくるよ」
視線を宙に投げ、ぼんやりとどこともなしに見つめて頬杖をつきいれてもらったコーヒーを口にする。
アシスタント歴3ヶ月にして小塚くんは俺の好みのコーヒーの温度と濃さを完全に熟知している。そういう細やかな心配りができるのは、仕事が丁寧な証拠なので好感が持てた。
「君は恋人がいると言っていたね。どうやって知り合ったんだい?」
カップをデスク上に戻して、大きな声で俺の童貞を叫んでしまったことを恥いって固まっているアシスタントに尋ねた。
「あー……僕は世界がこうなってから、大学時代の同級生で残ってたやつに告白されまして……世界がこうなる前から格好いいなとは思ってるやつだったんですが、まさかお仲間だとは思ってもいなくって……でもまあ、それがきっかけです」
幾分、別の種類の恥じらいをにじませながら返事がかえってきた。
「彼が好きかい?」
「そりゃ、まあ……そうですね。はい。好きですよ」
「そいつはいい。俺もそんな相手に出会ってみたいもんだ」
再びマグカップの取っ手に手をやりながら俺はため息と苦笑混じりに呟いて仕事へと気持ちを切り替えた。
「さしでがましいとは思うんですけどぉ、先生に恋人ができない理由ぅ、わかる気もするんですよぉ」
へべれけになった小塚くんが俺に絡んできた。
週末に仕事が終わり、唯一の部下を誘って飲みにくりだした。
最初はいつも通り恐縮です、恐縮です、と注がれるビールを飲み干していた彼だったが、いつしか酔いがまわってきたのか手酌で勝手にガブガブと飲み始め、何が楽しいのかケラケラと終始笑いながら普段は口にしないようなことを口にし始めた。
「俺に恋人がいない理由? なんだよ、教えてくれよ。自分で言うのもなんだけど、背も高いし顔も悪くないはずなんだぜ」
酒のまわった頭で俺も調子に乗って答えた。「フフッ」と笑うような声がした気がして辺りを一度見回したが、周囲にはカウンター越しに居酒屋の店主らしき人物と、忙しく注文を取りに走り回るバイトと他の客くらいしかいない。笑う相手など見つかるはずもなかった。俺は気のせいかと小塚くんの方へと向き直る。
「男相手には童貞だって言ってましたけどぉ、それってスゴイ傲慢だと思うんですよぉ」
居酒屋の騒音で呂律の怪しい彼の言葉は捉えにくい。ぬるりと蛇のように滑って耳を通り抜けていきそうだ。
「だって、どっちが抱く側かなんて相手がいなけりゃわかんないでしょぉ? 僕だって抱かれる想像なんてしたことなくって、自分がゲイだとわかってからもずっとタチのつもりでしたけどぉ、リョウくんに出会ってからガラッと世界が変わりましたもん。もうトロトロになるくらい優しく抱いてくれるんですよ。リョウくんは。そしたらね、自分が童貞でもなんでもよくなっちゃうんですぅ。リョウくんに気持ちよくなってもらえるのが喜びになるんですよぉ。鵜飼先生はね、自分が男役だっていう当たり前の自意識を持ちすぎだと思うんですよねぇ。そんな固定観念吹っ飛ばして好きな相手とならなんだっていい、バニラでもいいって思えなきゃ恋人なんてできないと思うんですぅ」
「バニラって何だ?」
散弾銃みたいに喋る部下を尻目に俺は全く違うところに気を取られて聞き返してしまう。これじゃあオジサン丸出しだ。
「バニラってのはぁ、おちんちんを入れないエッチですよ。互いに愛撫するだけで気持ちよくなるんです。ねっ、こんなエッチも知らないんだから、恋人なんてできるはずないんですよぉ」
「フハッ」
今度こそ本当に笑い声が聞こえて、俺は声のした方に目をやった。カウンターの中にいた店主らしき人物だった。
「なんだ君。客の話を聞いて笑うなんて失礼だぞ」
少し気分を害した俺は店主に文句を言った。
「そこっ! そういう偉そうなところもマイナスポイント」
小塚くんからすかさず厳しい指摘が飛び、指までさされた俺は一瞬固まってしまった。
「だそうですよ、お客さん。もうちょっと寛大でいてくれないと。鵜飼栄輔さん」
「なんで俺の名前を知ってるんだ……?」
「そうっ、それ。寛大さ。大事! 親父さんいいこと言いますねぇ」
ご機嫌な小塚くんが場をかき乱す。俺は混乱している。なぜこの居酒屋店主は俺のフルネームを知っているんだ? 名刺なんか出していないし、会話の中でも名字は出ても下の名前なんか出ていない。
「親父さんかぁ……参ったね。俺、鵜飼と同い年なんだけどなあ」
真っ白な手ぬぐいで頭を覆って縛っている店主が答えた。
「鵜飼……? 先生を呼び捨てにしちゃうんですかぁ? 先生の知り合いれすかぁ?」
どんどん小塚くんの滑舌が怪しくなっていく。ここらで飲ませるのを止めないといけないな、と頭の片隅で俺は考える。
「知り合いってほどじゃねえかもしれないけど、俺はこいつを知ってますよ。高校のとき同じ教室で勉強してたんだから。まっ、こいつはいっつも学年トップで、俺みたいな平々凡々な奴と絡む機会はなかったですけどね」
店主は気さくげな笑みを浮かべた。
なんだあ、お友達だったんですねえ、先生にもお友達いたんですねえ、と小塚くんが嬉しそうに言ってカウンターに突っ伏した。時すでに遅し、酔い潰れてしまったのかもしれない。
「同級生……? すまない。覚えていない……」
「いいよいいよ。覚えてなくて当たり前だって。学生時代も2回しか話したことねーもん」
店主はそう言って笑った。人好きのする笑みだ。
その瞬間、俺は自分がひどく傲慢で冷酷な人間に思われた。こんな顔で笑う男を忘れてしまったのかと。
「竹丸酒店って、店の名前そのままに竹丸章吾だよ。T高校の2、3年の同級生だ。まっ、せっかく20年ぶりくらいに会えたんだから、よかったらまたうちの店に来てくれよ」
店主は――竹丸はなおも笑って続けた。陽気な男だ。
「後輩くんはその調子じゃもう無理だろ。タクシー呼ぶか?」
「悪いが頼んでもいいか?」
「だいじょーぶれすっ! 僕にはリョウくんがいるんれっ」
突然起き上がって宣言した小塚くんに驚いてびくりと身を震わせてしまった。竹丸も驚いた様子だった。
俺たちを尻目に小塚くんは携帯電話を取り出してどこかに電話をかけ始めた。
「もしもし、リョウくん? 今ねぇ、俺職場の先輩とのんでて、E駅西口近くの竹丸酒店って店にいるの。俺のこと好きなら迎えに来てぇ。来てくれたらチューしたげるからさあ」
それだけまくしたたてて小塚くんは電話を切った。
「大丈夫なのか? 彼にも都合があるんじゃないか?」
恐る恐る俺が尋ねると、何を言ってるんだといった顔で小塚くんがこっちを見返してくる。
「大丈夫れすよ。リョウくんは僕が大好きですから。あっ、先生、リョウくんのこと見て好きにならないでくださいね。俺の彼氏なんで」
それだけ言うとにっこり笑って彼はまたカウンターに突っ伏してしまった。
「いいねえ。若いって」
竹丸が茶化しながら俺たちの席にあったグラスや皿を片付け始めた。
「鵜飼はまだ飲むか?」
「いや、水をいただけないかな。それと勘定と……あと悪いんだが」
「ああ、いいよ今日は。再会の祝いにサービスしてやるよ。それにリョウくんとやらが来るまでその席で待ってていいぜ。後輩くんの愛しの彼を見て、俺も目の保養にさせてもらいたいからな」
リョウくんとやらが来て店を出る時は声かけてくれ、と言い残してカウンターの奥のシンクの方へと竹丸は歩いて行った。
リョウくんは想像以上に屈強な若者だった。
「ご迷惑をおかけしました」
頭を下げる時の腰の角度とかキレの良さに体育会系の匂いを感じた。
「いや、こっちも飲ませすぎてしまったから」と言っても、義理堅く腰を曲げて頭を下げている姿は好感が持てた。小塚くんは幸せだろう、こんな実直そうな恋人がいてくれて。
リョウくんに肩を借りて――というかほとんど背負われる形になりながら――帰って行った小塚くんを竹丸と並んで見送った。
「この店は店主の見送りまであるのか」
「まさか。あれだけ惚気てたリョウくんとやらへの。好奇心だよ、コーキシン」
竹丸は笑って店の中へと戻って行こうとする。その背中を見つめていると視線に気づいたのか竹丸が振り返った。
「お前は入らないのか?」
「ああ、もう俺も帰るよ」
「そうか。また来てくれよ」
「わかった。じゃあ」
「おう。またな」
竹丸がヘラリと笑って手を振った。俺と同い年の40歳のはずなのに、その動作はひどく幼いものに見えた。ちょうど高校生くらいの時期にありがちな緩さをまとった姿に。
自宅の部屋についてから、スーツ姿のままでクローゼットを開けて奥に押し込んでいたダンボール箱を引っ張り出した。高校の卒業写真を確かめたくなった。
〈T高校 平成X年度 卒業写真〉と書かれた背表紙のアルバムを箱の底の方に見つけた。手に取り引き出す。上に積まれた諸々の荷物の重さが邪魔してすぐには取り出せなくなっていて、堆積して奥深くに押し込められた記憶そのもののようだった。
名前が載せられた個人写真のページをつぶさに見た。全く記憶にないが自分と同じクラスだったと言っていた竹丸章吾という名前を五十音順の写真の中に追っていく。
「あった……」
先程の店主の面影を色濃く残した男子生徒が笑っていた。破顔という言葉がぴったりな笑顔だった。18歳でここまで屈託ない笑いを浮かべて写真に残れる高校生も珍しいのではないだろうか。周りはみんなせいぜい微笑か、もしくは無表情に近い顔で写っている。
高校生の竹丸の顔を見て、俺は彼と言葉を交わしたことがあったのを思い出した。一度は学校祭か何かでクラスの出し物を作るのに必要な会話を交わしたのだった。そのほかは思い出せない。その一度が学生時代に竹丸と交わした会話の最初で最後だったかもしれない。
「学生時代も2回しか話したことねーもん」と人好きのする笑みを浮かべて口にしていた店での竹丸を思い出した。
2回話したなんて、よく覚えていたなと感心する。記憶力がいいのだろうか。何度振り返ってみても、学校祭の一度をのぞいて竹丸の記憶は俺の中にはない。
もう一度、写真の中の竹丸を覗き込む。明るい奴だと思った。顔だけでなく、まとっている気配のようなものが。
それから数分間アルバムを開いていたが、それ以上は何も思い浮かぶものもなかった。もう一度箱に入れて、クローゼットへとしまう。
竹丸と話したというもう一つの記憶を心のどこかで探りながら、スーツを脱いでハンガーにかける。そのまま風呂に入って湯船に浸かりながら酒で火照った顔をお湯で洗った。
「この世界になってもいるってことは、あいつもゲイなのか」
俺はふいに当然のことに思い至り、それを確認するかのように呟いた。
ホモ・セクシュアルだけで構成されるようになった世界に残されていた竹丸章吾。高校の同級生で、偶然行った飲み屋の店主をしていて、弾けるようにキラキラと笑う男。俺と学生時代に2回話をしたことがあるらしいが、俺は1回しか思い出せない。
何か引っかかるものを感じながら風呂を上がった。熱でダラリと垂れ下がった睾丸がジョギングの成果でついた張りのある筋肉でバウンドする。
自分の全裸を風呂場の鏡に映して見てみた。なかなか悪くないと思いたい。顔も、体も、ペニスも綺麗に剥けていて、大きさもコンドームはLサイズが必要だ。
セックスは長らくご無沙汰している。おそらく5、6年前が最後。
竹丸はどんなセックスをするのだろうか? 唐突に頭に疑問が浮かんできた。あれだけ爽やかに笑う男が、セックスの時はどんなふうに変貌するのだろうか。ゲイということは、男役だろうか、女役だろうか。なんとなく、彼は女役なような気がした。男に尽くす女房タイプで、夜は奥手と見せかけていざという時には口いっぱいに怒張したペニスを頬張ることもいとわない気がする。涙目になりながら一生懸命男に奉仕して、両足をM字に開いて男を迎え入れる準備をする。少しだけ笑って、少しだけ恥じらいながら、後肛に男を受け入れるのだ。
勝手な妄想をめぐらせていると、いつのまにか自分のペニスがぎちぎちに勃起しているのが鏡に映った。酒が入っているはずなのに、まだまだ自分も捨てたもんじゃないと安堵と共に興奮を覚える。
立ち上がったペニスに手を添えた。亀頭をリング状にした指で何度か擦りあげ、快感を味わう。
――ついでに抜いておこう。
風呂場でよかった。すぐに洗い流すことができる。射精するのも久しぶりだ。1週間ぶりくらいか。普段は自室で動画などを見ながらしていたが、今は竹丸の痴態を想像するだけですぐに達することができそうだった。
俺はこの時は気づかなかった。やはり頭に酔いが残っていたせいかもしれない。今まで動画や画像の向こう側の人間ではなく、自分の身の回りの人間をオカズにオナニーしたことは一度もなかった。その一度もなかったことに何の抵抗も抱かずに懸命にペニスをしごいていた。竹丸の臀部に自身の自慢の太ももを打ち付ける。睾丸が彼の体にあたりパンパンと音を立てる様を想像してますます勃起を硬くさせる。
「栄輔ぇっ……」
彼が覚えていて口にしてくれたフルネーム。下の名前で呼ばれるのを妄想して同時に射精した。1週間溜めた精液がドピュドピュと風呂場の床に飛び散った。ずいぶんと多めに出た気がした。
なぜ竹丸は俺の名前をフルネームで覚えていたのだろうか。2回話したことを覚えていたのだろうか。
――もしや自分は彼に好意を寄せられているのでは。
持ち前の傲慢さが萎れていくペニスと裏腹にむくむくと鎌首をもたげる。
ペニスの先端からぽたぽたと白く濁った液体が粘りながら垂れ落ちるのを見ているうちに、少しずつ冷静になっていく。
自分が竹丸を汚してしまったような気がして罪悪感がわいてきた。オナニーで罪悪感を覚えるなんて数十年ぶりのことだ。
気恥ずかしさを洗い流すようにシャワーを出して精液の後処理をした。